四直運用資料室 入鋏省略 四直運用資料室

かつて押上線にあった期間限定車庫、向島検修区の概要

京成電鉄では高砂・津田沼・宗吾参道の3か所に車庫が設置されているが、かつては押上線にも車庫があったことをご存じだろうか?今日は廃線ならぬ「廃車庫」の姿を探っていきたい。

向島検修区の成り立ち

浅草線の開業

今から約60年前の1960年12月4日、都営浅草線が開業した。このとき開通したのは押上と浅草橋の間の3.2kmのみであったが、押上にて京成押上線と相互直通運転を開始した。区間は短いものの、浅草乗り入れが悲願だった京成電鉄にとっては大きな一歩であった。

車庫が無い

開業区間が短かったことで、ある問題が発生した。車両の置き場所が無いのである。現在では西馬込に車両基地があるが、当時は未開業。押上駅付近に車庫を設ける予定だったのだが叶わず、代替地を用意する必要が生まれた。
京成電鉄の車庫を間借りすればいいじゃないかと思うかもしれないが、京成電鉄も輸送力増強のために車両の増備と車庫の拡張を行っていた状況で、都営地下鉄の車両を受け入れる余裕はなかったものと思われる。
そこで、開業時に投入された5000形2両×8編成=16両を留置、検査、修繕するスペースとして白羽の矢が立ったのが、押上線に存在した廃駅、向島駅の跡地であった。

向島駅の歴史

向島駅はかつて押上線の曳舟~荒川(→八広)間に存在した駅である。当駅からは白鬚線が分岐していたのだが、白鬚線が1936年に廃線になると追って1947年に向島駅も廃止された。廃止後は、改軌工事の際に台車交換の作業基地として使われたこともあった。
向島駅の配線 都営地下鉄の車庫を設けるにあたって、押上からの回送費用を都が負担することから、押上に近い向島駅跡が利用されることになった。

向島検修区の設備

以上のような経緯で向島検修区が誕生したわけだが、廃駅跡地を利用している関係上、その設備は充分とは言えなかった。向島検修区の配線略図を以下に示す。 向島検修区の配線 向島検修区には「一年検査線」「一ヶ月・交番検査線」「毎日検車線」と留置線2本が設けられた。設計上面積が限られているため、転線用の引上線は4両ぎりぎり、ピット内には曲線が入り込むことになった。(ピット内に曲線があるせいで検車業務が難しかったという話をどこかで読んだ気がするのだが、出典を失念してしまった…)
なお、渡り線や分岐の位置は白鬚線が分岐していた時代と近かったそうだ。向島検修区の航空写真を以下に示す。 向島検修区の航空写真(1963年頃)

向島検修区の運用

向島検修区は都営車の車庫として誕生したものの、京成線内に位置することから、京成が保有し都に貸与する形となった。また、押上駅から向島検修区までの回送費用は都が負担するものの、乗務員は京成が担当することとなった。なお、京成側でストライキが発生しても都営地下鉄の運転を保証するといった取り決めが交わされたそう。時代を感じる。
向島検修区の航空写真(1963年頃) 向島検修区への出入りのために押上起点1.7km地点に設けられたのが向島信号場である。浅草線開業時の列車運行図表を見てみると、向島信号場から入出庫する列車が何本かある。浅草線開業時の都営車運用を下表に示す。
01T03T05T07T<4両>09T11T
4時台〇浅草橋
→押上~浅草橋
5時台押上~浅草橋〇向島
→浅草橋~青砥
〇向島
→東中山
6時台押上~浅草橋青砥~浅草橋→浅草橋〇向島
→浅草橋
→青砥
7時台→東中山青砥~浅草橋→押上
→浅草橋
→青砥
→浅草橋
→青砥
→浅草橋
〇向島
→押上
→東中山
8時台→浅草橋
→青砥
青砥~浅草橋→浅草橋
→押上
→浅草橋△
→押上
→浅草橋
→青砥
→浅草橋
東中山~浅草橋
9時台青砥~浅草橋押上~浅草橋→向島△東中山~浅草橋
10時台青砥~浅草橋押上~浅草橋東中山~浅草橋
11時台青砥~浅草橋押上~浅草橋東中山~浅草橋
12時台青砥~浅草橋押上~浅草橋東中山~浅草橋
13時台青砥~浅草橋押上~浅草橋東中山~浅草橋
14時台青砥~浅草橋押上~浅草橋東中山~浅草橋
15時台青砥~浅草橋押上~浅草橋東中山~浅草橋
16時台青砥~浅草橋→東中山〇浅草橋
→東中山
押上~浅草橋〇向島
→浅草橋
→押上
17時台→浅草橋
→押上
→浅草橋
→浅草橋→浅草橋→青砥
→浅草橋
→押上
→浅草橋
→青砥
→浅草橋
18時台→青砥
→浅草橋
→押上
→東中山
→浅草橋
→東中山
→浅草橋
→押上
→青砥
→浅草橋
→押上
→浅草橋
→青砥
19時台→浅草橋
→向島△
→向島△→向島△→押上
→東中山
→浅草橋~押上
20時台→浅草橋押上~浅草橋
21時台青砥~浅草橋押上~浅草橋
22時台青砥~浅草橋押上~浅草橋
23時台→青砥
→向島△
→青砥
→浅草橋
→押上
24時台→浅草橋
→押上
→浅草橋△
表中の矢印は行先を示す。「A~B」は区間ABを往復するピストン輸送を示す。〇は出庫、△は入庫を示す。
当時設定されたのは01Tから11Tまでの6運用。朝のみの07Tは平日のみ4両編成で運転されたほかは2連。浅草橋で夜間停泊があるほか、日中にも浅草橋留置が存在した。向島信号場発着の列車は基本的に押上から(まで)回送。
当時の都車の乗り入れ区間は乗入協定で東中山までと決まっていたため、東中山以東へ直通運転する列車は全て京成車の担当であった。車両使用料は走行キロで相殺する事になっていたから、部分開業時における都車の直通列車担当率は低いものだった。
ちなみに京成車運用は31Kからの連番で、一部運用が4連。K台を名乗る列車は東中山までの運転だったが、朝夕を中心に一部列車が東中山で列番を変え、津田沼方面に直通した。
ダイヤ的には、京成としてはまだ地下鉄非対応車(青電)が多くを占め地下鉄対応車(赤電)が少ない中で、車両のやりくりを上手く行っているのではないかと思われる。日中パターンダイヤを見ると、浅草橋からの青砥止まりは上野線からの千葉行に、押上からの金町行は上野からの準急B成田行に、上野からの青砥行は浅草橋からの東中山行に、東中山行は東中山で準急B成田行にそれぞれ連絡し、これに不定期で成田発着特急が挟まるのが基本パターンだった。青砥や高砂でどの系統同士を連絡させるかが大きなポイントとなるのは、現在のダイヤと共通する部分でもある。
現在のダイヤといえば複雑な車両運用からくるネタ列車の類であるが、その片鱗はこの直通開始時に既に現れている。それが505T列車と2308T列車である。
この2列車は青砥方面から向島検修区に入出庫する列車で、本線上でスイッチバックする形で入出庫を行っていた。入庫する2308T列車は始発駅の青砥から回送されたが、問題なのは出庫する505T列車。向島信号場を回送で発った505T列車は隣駅の荒川(→現八広)から営業を開始…したかは残念ながら不鮮明で読み取れないのだが、もしそうであれば一日一本だけの荒川始発列車となり、かつての子安始発や平和島始発を上回るネタ列車となるだろう。というのも当時の荒川駅はただの中間駅で、当駅始発が出ることなどそれまであり得なかったはずだからだ。実際にそうだったかは不明だが、国立国会図書館にある1960年版時刻表あたりを見ればはっきりするかもしれない。
最後に、石本祐吉氏が撮影した向島検修区の画像が「京成の駅 今昔・昭和の面影」(JTBパブリッシング)に掲載されている。向島検修区を写した貴重な写真であるので、ここに引用させていただく。 向島検修区の写真(1964年頃)

向島検修区のその後

そもそも、向島検修区が仮初の車両基地として建設されたのは、将来的に本設の車両基地を別に設ける予定だったからである。
当初計画では大門車庫と馬込車庫を設け、それぞれ8連7本と8連37本を配置する予定だった。浅草線が大門まで開業した時点で向島車庫の役割は終わり、大門車庫が向島検修区の業務を引き継ぐはずだった。なお、大門開業直前までの一時的な期間に向島検修区に40両が配置される計画だった。
しかし、のちに大門車庫の建設は取りやめとなり、京成の高砂車庫を拡張する形で1963年に高砂検修区が発足する。このとき向島検修区の検車業務が高砂検修区へ移り、向島検修区は工場業務担当となった。
1968年に浅草線が全通すると、西馬込駅付近に馬込検車場が設けられ、高砂検修区の業務を引き継いだ。高砂検修区は京成に返還され、現在の高砂検車区となっている。
1969年6月には馬込車両工場が発足し、向島検修区の業務を引き継いだ。向島検修区はその役目を終えた。
馬込車両工場は2004年に閉鎖され、馬込検車区は工場業務を引き継いで馬込検修区となった。
こうして短命に終わった向島検修区だが、その跡地は京成電鉄に返還され、その後も利用されている。1度目は荒川橋梁の架け替えの際に、2度目は押上線連続立体交差化の際に、作業スペースとして使われた。

2020年12月4日に都営浅草線は開業60周年を迎える。それは向島検修区の開設60周年でもある。今となっては押上線の高架化によって当時の痕跡を見つけ出すことは難しいが、後に空港アクセス路線として飛躍していった浅草線の原点はこの地にあると言っても過言ではないだろう。
かつて向島検修区があった場所の現況を2018年に撮影していたので、下に掲載する。 向島検修区の跡地(現在) 現在は高架化されている押上線。画面右手が車庫跡地。 向島検修区の跡地(現在) 高架化工事で撤去された枕木置き場になっている。ちょうど横幅が2線分であることが分かる。 向島検修区の跡地(現在) 現在も京成の所有地である。 向島検修区の跡地(現在) この三角地が(奥の家部分を含め)車庫本屋である。

参考文献

諸事情により都営1号線建設史を参照することが出来なかったが、こちらにも有益な情報が掲載されていると思われる。
KSK技報1960-10https://iss.ndl.go.jp/books/R100000039-I000152075-00 には建設中の向島検修区の画像が掲載されている(と手元のメモにある)。こちらも参照することが叶わなかったが、興味のある方はぜひ。